鶴乃茶屋の石畳

鶴乃茶屋の石畳

この辺りは、もともと中国街道や能勢街道から大阪方面を訪れる旅人のための休憩所でしたが、江戸後期から明治中期にかけては、大阪市内の人々が遊山する場所としても知られるようになりました。当時の梅田周辺は、春には菜の花が一面に咲く美しい野原で、花見などをするための茶屋として、鶴乃茶屋や車乃茶屋、萩乃茶屋という茶屋が賑わいました。現在、この辺りを茶屋町と呼ぶのは、そのことに由来しています。明治の末から大正の頃になると、鶴乃茶屋では「高等下宿」を始め、多くの文士や画家がここに住むようになり、「文化サロン」的存在となっていきました。当時の石畳の一部が右側歩道に移設され、現在も残っています。

鶴乃茶屋に住んでいた
日本画家・野田九浦

高等下宿となった鶴乃茶屋には、日本画家である野田九浦氏も居住していました。
野田九浦氏は、夏目漱石の「坑夫」の挿絵を描いたことで知られています。
大正元(1912)年には大阪在住の浮世絵師であり日本画家であった北野恒富と大正美術会を結成。大阪の日本画壇の中心人物として活躍しました。大正4(1915)年には美術展の祝賀会として、北野恒富氏や岡本大更氏らが鶴乃茶屋に集まったという記録が残っています。

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与謝蕪村は茶屋町周辺の
菜の花畑を想いながら句を詠んだ?

鶴乃茶屋があった現在の茶屋町周辺や天満、毛馬辺りは、明治の初め頃まで、菜の花の名所として知られていました。
「菜の花や月は東に日は西に」という有名な句は、安永3(1774)年に詠まれた句です。この句を詠んだ、巨匠とも言うべき俳人・与謝蕪村は毛馬の出身。晩年には定住していた京都から、船に乗って茶屋町周辺を頻繁に訪れていたとも言われており、この句についても、原風景である茶屋町や毛馬の情景を思い浮かべてつくった、という説があります。

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鶴乃茶屋の当時の敷地は
どのあたり?

当時の文献を参考にすると、鶴乃茶屋の敷地は、下記地図の黄色く囲った場所にあたります。黒塗りの壁に囲まれた、上質なお茶屋であったと言われています。

鶴乃茶屋MAP

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鶴乃茶屋という名前がついた由来は?

  • オーナーの奥さんの名前が「鶴子」だったから
  • 茶屋にあったお風呂に入るとお肌がツルツルになったから
  • オーナーが鶴を飼っていたから

正解はこちら

正解=③
鶴乃茶屋のオーナーであった松並竹塘氏が、茶屋で2羽の鶴を飼っていたことが「鶴乃茶屋」の名前の由来だと言われています。また、このことは、茶屋町の隣にある「鶴野町」という地名の由来にもなっていると考えられています。

梅田東史跡一覧

史跡MAP

大阪府大阪市北区茶屋町2-9

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